能の歴史は、奈良時代に中国からやって来た「散楽」がルーツと言われている。散楽は器楽・歌謡・舞踊・物真似・曲芸・奇術など多様な芸を演じてきたが、平安時代に廃れ始めると役者が各地に分散して、大きな寺社の保護を受けて祭礼などで芸を演じたり、各地を巡演するなどして芸が続けられた。このころには「散楽」も「猿楽/申楽」と呼ばれるようになり、農村の民俗から発展した「田楽」、寺の密教的行法から生まれた「呪師芸」などの芸と交流・影響しあっていった。
南北朝の頃になると観阿弥が登場し、足利義満の支援を得て発展し、世阿弥によって「能」の芸術性が確立された。世阿弥は、「夢幻能」というスタイルを練り上げ、主演者である「シテ」一人を中心に据えた求心的演出を完成させて、多くの作品を残した。室町後期には素人出身の能役者が活躍し、能が町人階層にも広く愛好されていたという。
応仁の乱以降の幕府の弱体化や寺社の衰退によって、能役者が有名大名を頼って地方へ下った。織田信長が能に対して好意的であったり、豊臣秀吉が熱狂的な愛好家であったことから、能役者は、社寺の手を離れて武家の支配を受けるようになった。この時期、豪華絢爛な桃山文化の隆盛を背景に、豪壮な能舞台の様式が確立され、装束も一段と豪奢になったほか、能面作者にも名手が輩出し現在使われている能面の型がほぼ出揃った。
秀吉の没後、徳川家康も秀吉の制度を踏襲して能を保護した。地方の有力諸藩も幕府にならって役者を召し抱えた。しかし、幕府や諸藩は能楽の保護者であると同時に厳しい監督官でもあった。頻繁に出される厳しい通達によって、技芸の鍛錬と伝統の正確な継承を要求された結果、能はだんだんと格式張っていった。
明治維新によって保護者を失った能役者の多くは、廃業
転業を余儀なくされた。しかし、外国の芸術保護政策の影響を受けて国家の伝統芸術の必要性を痛感した政府や、皇室、華族、新興財閥は外国要人をもてなすための西洋のオペラのようなものが必要と考え、能を保護し能楽が息を吹き返した。 |