名古屋訪問 熱田神宮・名古屋城・ナガシマスパーランド
『連休どっかに行くの?』 『愛知にプラリと』 『暇だし、俺も行こうかなぁ』 と、つい暇ぶっこきから企画内容も良く知らずに同行を申し出てしまった。「やべっ、しまったかな?」と思いつつも未踏の土地名古屋へと。 |
熱田神宮 1893年までは尾張造と呼ばれる独特の建築様式であったが、三種の神器が奉納されていると言うことで伊勢神宮と同じ神明造となった。ついでに、「三種の神器の一つを祀る熱田神宮は、伊勢神宮と同格であるべきだ」という主張が熱田神宮の中にはあり、明治時代に国にその申請をしていたが認められなかった。 |
眼鏡之碑 「眼鏡業に携わる私たちは八尺勾玉を造らせたもう玉祖命(たまおやのみこと)を祖神として崇拝し、眼鏡の功徳に感謝しつつ生業にいそしんでまいりました。わたしたちの組合が六〇周年にあたるので、縄文時代のめがね(遮光器)をつけた土偶を顕彰碑として建立し、広く国民一般の方々に啓蒙、精神文化向上の一助にしようとするものであります。」 by名古屋眼鏡商業協同組合 |
草薙剣と熱田神宮 素盞嗚尊(スサノオノミコト)はヤマタノオロチ退治の際に、ヤマタノオロチの尾の中から天叢雲剣(アマノムラクモノツルギ)を発見し、天照大神に献上した。天照大神は、その天叢雲剣を迩迩芸命(ニニギノミコト)に授けた。そして剣は皇居内に天照大神の神体とされる八咫鏡(ヤタノカガミ)とともに祀られていたが、崇神天皇の時代に皇女豊鍬入姫命(トヨスキイリビメノミコト)により八咫鏡とともに皇居の外に祀るようになり伊勢神宮内宮に祀られるようになった。以後、伊勢神宮にて祀られていたが、、東国の制圧(東征)の際に日本武尊(ヤマトタケル)に渡された。日本武尊が東征の途中、神剣によって野火の難を払ったことから「草薙剣(クサナギノツルギ)」の別名を与えられている。 東征ののち、日本武尊(ヤマトタケル)は尾張国で結婚した宮簀媛(ミヤズヒメ)の元に剣を預けたまま伊吹山の悪神を討伐しに行くが、途中で亡くなってしまった。宮簀媛は剣を祀るために熱田神宮を建てた。草薙剣は668年に新羅の僧に盗まれてしまうが、嵐のために出航できなかった僧を捕獲することができたと言う(この辺は2度3度神剣が自らの意思で戻ってきたが、ついには持ち出されてしまうと言う話がある)。この難を重く見て(そりゃそうだ)、そのときに賊が進入した清雪門は不開門(アカズノモン)とされて閉ざされたままだ。また、同じような賊をだますために八剣宮が建てられたという。 剣を賊より取り戻した後、暫くは皇居内に祀られていたが、天武天皇が病に倒れると神剣の祟りだということで熱田神宮に戻された。一説には壬申の乱で天武天皇の助太刀をした尾張国をたてるために、祟りという理由を作り上げて熱田神宮に返却されたとも言うが本当のところはどうなのか???なお、この時に熱田神宮に返却されたことを祝う「酔笑人神事」や「神輿渡御神事」が神事として行われている。そして戦後にアメリカ軍に奪われると言う恐れから、飛騨一宮水無神社へ一端非難するが、戦後に神官がひっそりと電車にて持ち運び、現在に至るという。 |