実朝ゆかりの地巡り+(ちょと)パン狩り@鎌倉~大船~秦野編 |
鎌倉にて源実朝ゆかりの地を巡りましょうと。んなら、パン屋さんも巡ってパン狩りしちゃう!?と夢のコラボ!? |
■■■■■ 鎌倉編 ■■■■■ |
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源頼朝は、鎌倉八幡宮寺、勝長寿院と永福寺の大きな寺を3つ鎌倉に建立した。これらは3大寺院と言われた(現在、残っているのは鶴岡八幡宮だけで後の2つは焼失してしまった)。 中でも勝長寿院は極めて壮大であり、今でも大御堂の地名が残っている。源頼朝の父・源義朝は平治の乱で破れ、鎌倉への帰路、知多半島内海で殺害された。文治元年(1185)、源義朝の菩提を弔うために、この地に勝長寿院を建立した。 同年9月3日に源義朝と忠臣・鎌田正清の首を埋葬した。勝長寿院には本尊・金色阿弥陀仏像をはじめ、阿弥陀堂、法華堂、三重の宝塔などの荘厳な伽藍が建ち並んでいた。源氏の菩提寺的存在であった同院は、幕府や関東公方の保護によって寺容は整えられた。将軍・実朝はしばしば同院を訪ね、何首かの歌を残している。 承久元年(1219年)、実朝が公暁に殺害されると火葬にして同院に葬られた。北条政子は実朝追福のため、同院の傍らに五仏堂を創建し、運慶作の五大尊像を安置している。嘉禄元年(1225年)に政子が没すると同院で火葬にされた。この寺は康元元年(1256)12月の火事で消失したが、正嘉2年(1258)、北条時頼によって再建された。鎌倉幕府滅亡後も足利氏によって保護されたが再び焼失してしまい、その後廃寺となった。 |
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大慈寺は、源実朝が父源頼朝への感謝のために創建を開始した寺院で、勝長寿院の「大御堂」に対して「新御堂」と言わた。正嘉元年に征夷大将軍宗尊親王の時、本堂・丈六堂・新阿弥陀堂・釈迦堂・三重塔・鐘楼などをことごとく修理を加え、より荘厳の美が増したと『吾妻鏡』にある。 |
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源頼朝は、鎌倉八幡宮寺、勝長寿院と永福寺の大きな寺を3つ鎌倉に建立した。これらは3大寺院と言われた(現在、残っているのは鶴岡八幡宮だけで後の2つは焼失してしまった)。 永福寺は周辺約9万平方メートルにわたり、現在は国指定史跡に指定されている。源義経や藤原泰衡を初め、奥州合戦の戦没者の慰霊の為に建てられた寺で、文治5年(1189)12月に工事を着手した。頼朝が奥州・藤原一族を征討した際、平泉中尊寺の二階大堂(大長寿院)のすばらしさに心をうたれ、それを模して建てられた。二階の堂があった為「二階堂」と呼ばれ、付近一帯の地名にもなった。 |
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■■■■■ 大船編 ■■■■■ |
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玉縄城2代目城主北条綱成が1503年に建てた瑞光院がこの寺のはじまりで、開山は泰絮宗栄(たいじょそうえい)と伝えられています。 1575年(天正3)に玉縄4代目城主氏勝が3代城主氏繁を弔うため現在の地に移し、氏繁の戒名「龍宝寺殿大応栄公大居士」により、寺名を「龍宝寺」として建立されました。略名として大応寺ともいわれたようです。その当時は玉縄北条氏の菩堤寺として栄え、七堂伽藍という寺院の建物がならび、広い土地や財産を持つ立派な寺だっといわれています。 玉縄城主歴代の位牌(いはい)や実朝の位牌も安置されている。 |
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■■■■■ 秦野編 ■■■■■ |
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「震災の影響でスーパーの陳列棚から食べ物が消えた。そのときに理屈でなく食べることの大事さを痛感した」 |
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金剛寺は、もともと小寺でしたが、鎌倉時代に武常晴(つねはる)が3代将軍源実朝の御首(みしるし)を当寺に持参して埋葬したことに始まるといわれています。退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を招いて木造の五輪等を建て実朝の供養をしました。その後、実朝の法号金剛寺殿にちなみ、金剛寺と改めました。 1250年(建長2年)に、波多野忠綱(ただつな)が実朝の33回忌のため再興しました。本堂には、源実朝像が安置されています。 |
実朝ゆかりの地巡りとパン狩りをコラボってみて、鎌倉から大船、秦野まで訪れてみた。正直、実朝の知識不足で、巡っているときは由来も知らなかったけれど、ここで整理して少し知識を得た次第。 ところで、実朝が歌人だったというのは知っていたんだけれども、宋(中国)へと渡ろうとしていたとは知らなんだ。その経緯も夢だの言伝だのと重なって、夢見た実朝が渡宋しようとしたのだけれど、完成した船は出航することも無く…。その3年後に、鶴岡八幡宮の大石段にて、大イチョウに隠れた公暁により殺害されてしまうのであった。 学校の教科書では公暁に殺されたと、さらり記述されていただけなんだけど、色々とあったんだなぁと(そりゃそうだ)。 家柄良しにして、武士として初めて右大臣になったり、スピード出世していたのだけれど、実朝って幸せだったのかなぁ? |