白川郷
 
合掌苑:約200年前に立てられた合掌造り家屋を利用した土産屋『岐阜には白川郷があるぞ』 
『ほにゃららら?白川郷とは何であろうか』 

そんなわけで、白川郷について簡単に調べてみると、合掌造りとやらで作られた民家が集まる集落であるらしい。集落なんて見て面白いのか、なんて思ったけど、『バカ、白川郷は世界遺産だぞ』という言葉に、にわか世界遺産クラブ会員としては『是非とも訪れなくては』という気持ちになったのである。 

そんなわけで、荘川ICを降りて国道156号をひたすら北上することしばし、ようやく到着することのできる白川郷。ちなみに、国道156号は道が狭い上に、トラックやバスなんかも通行するので、なかなか大変なドライブとなる。


 
白川郷
霊峰白山の麓に110棟余りの合掌造りの民家が連なる白川郷。1995年12月9日にユネスコの世界文化遺産に登録された3つの合掌集落の中で1番大規模な荻町合掌集落はここにある。40~50年に1度行われる茅葺き屋根の葺き替えでは、村人が互いに助け合う「結い」と呼ばれる制度で協力しあい、合掌造りを守り続けてきた。 

五箇山
5つの谷間に集落があることから、その名が付いた五箇山。平家の落人伝説も残るこの地は、江戸時代には加賀藩の流刑地で、硝煙や藩札の生産地でもあったため、住民の出入りが禁止されていた秘境だった。 
加賀藩への年貢の約半分が塩硝で納められた。原料となる蚕の糞や山野草、煮詰め用の薪材が豊富に揃うことなど、五箇山は塩硝の製造に最適な条件が揃っていたため、後に質・量ともに国内一の塩硝産地へ発展した。 

合掌造りとは
1935年(昭和10年)、ドイツの建築学者ブルーノ・タウトが、御母衣の遠山家を調査する目的で白川郷を訪れた。タウトは合掌造りを「極めて論理的、合理的で、日本には珍しい庶民の建築」と考え、日本の建築では京都の桂離宮とともに、白川の合掌造りを高く評価した。白川郷は、彼の著書「日本美の再発見」によって広く紹介され、一躍世界の注目を集めるようになった。 

建築には釘やかすがいは一切用いず、わら縄やネソ(粘気の灌木)を使って縛り上げる。内部は1階のみが住居、2階以上は養蚕などの作業上や倉庫で、床の板張りはせず、篠竹をあんだ簀の子が敷かれている。このため、1階の囲炉裏の煙が屋内全体に行き渡り、付着するススが防虫と木材の強化に役立つとともに、蚕に適温を与えることができるという。


 
 
明善寺の庫裡3階明善寺の庫裡2階ここは明善寺の庫裡内部。確かに内部の2階以上は、倉庫として使用されていて通路以外は、簀の子が敷かれていました。また、木材もススが付着していて真っ黒です。

 
 
明善寺の庫裡3階木材の固定は、確かに縄が使用されています。 明善寺庫裡のユル(囲炉裏)「ユル」と呼ばれる囲炉裏です。見にくいけど上に四角い板が吊されています。これは「火アマ」といい、ユルの火の粉が直接アマ(2階部分)に行かないようにしている。

 
のどかな白川郷 さて合掌造りや白川郷について良く分からないまま訪れてしまった今回の旅行。忙しい日々が続いて、事前調査をすることができなかったのである。で、ホームページを作成するにあたって、改めて調べてみると、『あらま、そういうことだったのね』なんて事がたくさん出てくる。う~ん、残念である。 

しかし、この白川郷を訪れた日は、ご覧の通り快晴であり非常に天候に恵まれた。これから白川郷は日々寒くなっていくのであろう。今でこそ、東海北陸自動車道によって訪れやすくなっているが、交通整備のされていない昔はどんな場所であったのだろうか、まさに秘境であろう。 

昭和10年、タウトが訪れたときはどんなであっただろう。ただそれだけが気になるのであった。もちろん、冬なんぞに訪れたわけではないだろう・・・。 

ちなみに、白川郷を訪れてビックリしたのが、その観光客の数。村のメインストリートはすっかり観光地化されていて、『ここは原宿なのか?(ちょっと言い過ぎ)』と思ってしまうほどの人であった。どうやら、世界遺産に登録されてから観光客がどっと増えたらしい。屋久島でも同じようなことを言っていた。やはり、認知されると言うのは重要なのだと感じてしまった。 

しかし、家の軒先まで人々が押し寄せてくるこの状況。商売をする人にとっては良いが、普通の生活をする人にはたまらんであろう。村の政策としてこのまま観光地化を推し進める派とその反対派というのがあるんだろうなぁ、なんて余計な心配をしてしまった。その辺、どうなんでしょう?


 
 
国道360号 さて、国道360号を通って高山へ。この360号がまた狭い道で、山の中をクネクネ走っている。まぁ、トラックやバスが走らないだけ、156号よりましなのであるが、夕方過ぎると真っ暗となるので結構大変である。ちなみに、この360号悪天候の時には交通規制があるそうなので、通行する際には事前の確認が必要だ。

 
 
 
高山
 
城下町の風情を色濃く残し、「飛騨の小京都」と称される高山は、北アルプスの山々に囲まれた飛騨の中心地。1585年(天正13)に飛騨を平定した金森長近が天神山(現在の城山公園)に高山城を築き、6代107年間に渡ってこの地を支配した。

毎年春と秋に開催される高山祭りは有名。飛騨匠の技を結集した、絢爛豪華な屋台が引き回され、高山がもっとも華やぐ。


 
宮川の東側に広がる、一之町、二之町、三之町は総称して三町と呼ばれている。城下町高山の面影を色濃く残すエリアで、今も古い家が軒を連ねている。中でも上三之町は、もっとも高山らしい景観を保ち、造り酒屋や出格子の町屋の構えをそのまま生かした土産店や飲食店が並ぶ。日が暮れて明かりが灯ると、古い町並みは更に情緒豊かなたたずまいを見せる。

京の都を愛した初代藩主・金森長近の意向が反映された町とでも申しましょうか。訪れたこの日は、連休ということもあり人がたくさんいました。これまた事前学習をしていなかった我々は、高山の町をプラプラと歩き回って足早に高山を出るのであった。

たしかに、日が暮れて町の明かりが灯ると風情が出そうな町並みでした。温泉にでもつかって高山に宿泊をすれば、その光景を見ることができたのでしょうが、足早に立ち去る我々はそれを見ることができなかった、残念。


 
 
下呂温泉
 
さて、日々の疲れを癒すためにやってきた下呂温泉。飛騨川に沿って広がる下呂温泉の開湯は、天暦年間(947~57)とのこと。江戸時代には儒学者・林羅山も日本三名泉に数えた温泉だそうです。 

さて、どこの温泉に入ろうか、とプラプラ歩いてたどり着いたのは「小川屋」というところ。飛騨川を望むことができる露天風呂付きです。ちなみに、お金も時間もないという人には、写真のように足湯が無料で開放されています。 

足早に過ぎ去った白川郷・神岡(何故か訪れた)・高山・下呂である。いつもとは趣を異にした旅行になかなかの満足であるが、やはり事前調査の不足が痛い。今回印象に残ったのは、やはり白川郷を訪れる人の数と、家族連れで白川郷を訪れていた少女のつまらなさそうな顔である。確かに、小学生くらいから合掌造りに興味を持つなんて、相当なマニアしかいないでしょう・・・。