お出掛けのススメ 別府地獄巡り・国東半島史跡巡り:国東半島編 |
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六郷満山の創建者・仁聞(にんもん)が建立したと伝えられる由緒ある寺で、天徳4年(960)空也上人が建立したともいわれています。速見郡に多くの寺院建立の願をたて、最後にこの寺を建立し、願いが成就したことから願成就寺と呼ばれたといわれています。 |
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神護景雲3年(769年)5月、道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神の習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)が「道鏡を皇位につかせたならば天下は泰平である」という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上し、道鏡は自ら皇位に就くことを望む。称徳天皇は宇佐八幡から法均(和気広虫)の派遣を求められ、虚弱な法均に長旅は堪えられぬとして、弟である和気清麻呂を派遣した。
清麻呂は天皇の勅使として8月に宇佐神宮に参宮。宝物を奉り宣命の文を読もうとした時、神が禰宜の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出る。与曽女が再び神に顕現を願うと、身の丈三丈、およそ9mの僧形の大神が出現。大神は再度宣命を訊くことを拒むが、清麻呂は「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という大神の神託を大和に持ち帰り奏上する。 |
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阿弥陀堂(いわゆる富貴寺大堂)は、宇治平等院鳳凰堂、平泉中尊寺金色堂と並ぶ日本三阿弥陀堂のひとつに数えられ、現存する九州最古の木造建築物であり、国宝指定されている、まさに『仏の里くにさき』を代表する文化財です。富貴寺大堂とその中に収められている本尊の阿弥陀如来像は970丈にも及ぶ一本の榧の巨木から六郷満山寺院を開基したとされる仁聞菩薩の手によって造られた、と伝えられています。 |
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国東半島の天台宗寺院でつくる「六郷満山会」は4月、7年ぶりに伝統の修験行事「峯入り」を開く。同宗僧侶が半島の霊場を巡る荒行。期間は約1カ月で、2018年に六郷満山開山1300年を迎えるのを前に企画した。前回(2010年)の3倍近い計183カ所を巡礼する予定で、峯入りが再興した昭和以降初の試みとなる。 |
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昔、人間を食べたい鬼が、熊野権現に『人間を食べたい』とお願いをした。神様は人間を食べたいのであれば、日暮れから鶏が鳴く翌朝まで100段の石段を造れ、できなかったらお前を食い殺すと、できるはずのない無理難題を突きつけた。しかし、人間を食べたいあまりの鬼は日暮れから階段作りを開始し翌朝前にしてて99段まで石段を造りあげてしまった。その物音に気付いた熊野権現は、残り1段しかないことに気付いて驚き、鶏の声まねをしたそうだ。その鶏の声を聴いた鬼は朝がやって来たと驚き、最後の石を抱えたまま一目散に退散したとのこと。鬼は走り逃げる途中、力尽きて死んでしまったそうだ。 |
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白鬚田原神社で毎年10月17日、18日の大祭に氏子たちによって仕込まれたどぶろくを五穀豊穣を感謝して神様に捧げるという神事が和銅3年(710)から1300年以上も続いている。 |
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三面大黒天が一般に知れ渡ったのは、天下統一を果たした武将「豊臣秀吉」が常に守り本尊としてこの三面大黒天を身に付ることにより、そのご利益で天下統一を果せたことでした。三面出世大黒天は、大黒天を中心に、左には弁財天、右には毘沙門天の3面を持っている。弁財天は女性神で弁舌、学問、知識、音楽、技芸の功徳がある神様。毘沙門天は四天王の中では最強の神様で多聞天とも言われている護法神でもある軍神である。 |
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